昔々、石見の国石見銀山に仙人と山姥の夫婦が住んでおったそうな。
仙人は霞を喰って、山姥は人を喰って暮らしておりました。
仙人は「ひょうひょうと生きてますねってよく言われます。一生懸命が似合わない男です」なんてうそぶいておりました。
一方、山姥は「一生懸命が似合う女です。セカセカ動くことが生き甲斐です」みたいなどうみてもアンバランスなカップルでしたが、取り合わせの妙とでも言うのでしょうか、割れ鍋に綴じ蓋のことわざもあるようにそれなりに仲睦まじく暮らしておりました。
世間ではこの二人のことを「鬼の山姥、仏の仙人」と噂しておりました。
実は、何を隠しましょう山姥の好みの男性は一途に仙人タイプだったのです。
その証拠に花もつぼみの十七・八歳の頃、山姥のあこがれの人はなんと宇野重吉さんだったのです。まわりが、ジュリー、ショーケンと騒いでいる時代にです。
(このあたりのジェネレーションギャップのある方は身近の団塊の世代に聞いてください)
そうです山姥は理想のタイプと結婚したつもりでいたのです。
結婚式には「スジ肉も料理次第でうまくなる」というい祝電が届いたくらいですから。
三十数年後、その痩せ細った仙人がメタボに冒されるとは・・・・当時の山姥には想像だにしなかった事でした。
この夫婦、世間並みに山あり谷あり、そして幾度かの危機もありましたが、三人の女の子にも恵まれ幸福な家庭を築いてゆきました。
二人の子育ては他力本願、子ども達はそれぞれに里に出てゆき村人に可愛がられて育てられました。そのおかげでひょうひょうともぜず、またセカセカともせず、それなりに逞しく成長してゆきました。
子育てが終わった二人はお互いのライフスタイルを尊重しあって町内別居をはじめました。
親子はスープの冷めない距離が理想と言いますが、夫婦は愛の冷めない距離なんだそうです。
最近山姥はある筋の情報で仙人の好みのタイプが大和撫子タイプだということを知りました。早く言ってくれれば好みにあわせる努力もしたものを・・・と大和撫子とはほど遠い今の自分を悔いるのでした。
それでも、知ったからには連合いの好みに答えようと、健気にもトレードマークだったひっつめ髪をバッサリ切って、少しでも可愛らしくみせようと努力する山姥でした。
果たして仙人は気付いてくれるのでしょうか。
さて、山姥は人を喰って生きてきたことを深く反省し得意料理のとろろ汁でもう一花咲かせたいと「阿部家の台所」という食事処を始める決意をするのでした。
一方仙人は霞を喰って生きてゆけないことを悟り、
町に営業に出かけるのでしたが、なかなか思うようにいかないし・・・・・
若いもんへの叱咤激励のつもりのおどし文句は
「世代交代、うまくいかなかったらボケてやる」
これにて石見銀山今昔物語はおしまい、おしまい
2008年01月21日
2007年11月28日
纏うということ 2007年11月14日
衣食住というといちばん身近で生活のもっとも基礎となることと、今や大きな社会的課題である環境問題はじつは密接な関係にあると私は考えている。
どういう価値観で暮らすのか、どんなライフタイルを求めるのか問われているのだ。私は常々、生産者イコール消費者という図式が理想的だを考えている。消費者として望むことを基準に置くことのできる生産者でありたいし、また生産者の理念や苦労を汲み取れる消費者でありたいとも思う。自家菜園はよい例で、消費者としては無農薬を望むが、無農薬で野菜を栽培することがいかに苦労の多いことかやってみてわかる。また、手塩にかけて育てた野菜はたいせつに最後まで食べようとする。たとえ自家用であっても、生産者という立場に立ってはじめてわかることである。
食に関しては命や健康に直結しているので人は敏感に反応するし、家庭菜園のように関わり易いのだが、衣や住に関しては、案外、まだ無頓着な人が多いのではないだろうか。とくに衣の分野では生産者も消費者も、経済性や利便性、それにファッション性を優先することが多いのが現実だろう。
果たしてそれでいいのだろうか。このことに触れるということは、自分で自分の首を絞めることになりかねないと承知しているが、すでに避けては通れない時代にきていると思う。衣の分野も食と同じように環境と大きく関わっていると考えるからだ。
生産者としては、コストを下げるための大量生産、つまり過剰な生産をしない。生産過程で極力環境を汚さない方法をとる。デザイン面ではすぐに飽きられるような流行を追うモノづくりをしないおkとを心がけるべきだろう。
ひとつの試みとして今年、藍の苗を植えた。土を耕し、土に触れ、自らの手を汚す作業は貴重な経験となった。五月は水やりに精を出し、六月は雑草との闘いであった。やっと成長した七月にはアブラムシの駆除に苦労した。まさに藍は会社のみんなの愛によって育てられた。八月、収穫した藍で生葉染めと沈殿藍による染めを体験した。いつにない喜びと充実感に満たされた。
昔の人たちは地綿や地藍を育て、それを紡ぎ、織り、染めて身に纏ったのだろう。その知恵に敬服するばかりである。今となっては昔に戻ることはできないが、今、私たちが向かうべき方向を先人の知恵に学びたいものである。
どういう価値観で暮らすのか、どんなライフタイルを求めるのか問われているのだ。私は常々、生産者イコール消費者という図式が理想的だを考えている。消費者として望むことを基準に置くことのできる生産者でありたいし、また生産者の理念や苦労を汲み取れる消費者でありたいとも思う。自家菜園はよい例で、消費者としては無農薬を望むが、無農薬で野菜を栽培することがいかに苦労の多いことかやってみてわかる。また、手塩にかけて育てた野菜はたいせつに最後まで食べようとする。たとえ自家用であっても、生産者という立場に立ってはじめてわかることである。
食に関しては命や健康に直結しているので人は敏感に反応するし、家庭菜園のように関わり易いのだが、衣や住に関しては、案外、まだ無頓着な人が多いのではないだろうか。とくに衣の分野では生産者も消費者も、経済性や利便性、それにファッション性を優先することが多いのが現実だろう。
果たしてそれでいいのだろうか。このことに触れるということは、自分で自分の首を絞めることになりかねないと承知しているが、すでに避けては通れない時代にきていると思う。衣の分野も食と同じように環境と大きく関わっていると考えるからだ。
生産者としては、コストを下げるための大量生産、つまり過剰な生産をしない。生産過程で極力環境を汚さない方法をとる。デザイン面ではすぐに飽きられるような流行を追うモノづくりをしないおkとを心がけるべきだろう。
ひとつの試みとして今年、藍の苗を植えた。土を耕し、土に触れ、自らの手を汚す作業は貴重な経験となった。五月は水やりに精を出し、六月は雑草との闘いであった。やっと成長した七月にはアブラムシの駆除に苦労した。まさに藍は会社のみんなの愛によって育てられた。八月、収穫した藍で生葉染めと沈殿藍による染めを体験した。いつにない喜びと充実感に満たされた。
昔の人たちは地綿や地藍を育て、それを紡ぎ、織り、染めて身に纏ったのだろう。その知恵に敬服するばかりである。今となっては昔に戻ることはできないが、今、私たちが向かうべき方向を先人の知恵に学びたいものである。
襤褸の美 2007年11月5日
四年ほど前から「襤褸(ぼろ)の美」というテーマで素材づくりに取り組んでいる。
そのきっかけとなったのが、額田晃作氏の著作『ぼろの美』である。
一般的にぼろとは、使い古して役に立たなくなったものをいう。しかし、そこにはつくろうにもつくれないプリミティブアートの世界があった。
無数の端布が継いである布団の覆い、丹念な刺子が施してある野良着、破れを一針一針ていねいに繕った酒袋、それらの無名の作者による無作為な仕事に衝撃を覚えた。そしてそれまで自分のなかに眠っていた何かが呼び起こされた。言葉では言い表すことができない感動を私なりに素材で表現したいと思った。
ぼろという言葉は西洋社会においては役にたたないという否定的な捉え方をするが、仏教哲学では継ぎ接ぎが当てられ繕われたものは、謙遜の象徴であり、新しいものより価値があるとされるという。
袈裟の原点といわれる、僧の身につけた継ぎ合わせた布「襤褸布」は、托鉢、つまり乞食の精神を表したものだそうである。
閑寂な趣を好む日本人独特の侘寂の美意識はこうしたところから生まれたのだろう。また、「もったいない」という精神も継ぎ接ぎされた布に込められている。こうした精神やデザインとしての味わいを新しくつくる素材にも表現したいと思った。
建築では生活道具でも自然の素材でつくられたものは時間とともに朽ちていく。しかし朽ち果てる直前、えもいわれぬ美しさを放つ。そんな美しさを捉えたものづくりをしてみたい。
そのきっかけとなったのが、額田晃作氏の著作『ぼろの美』である。
一般的にぼろとは、使い古して役に立たなくなったものをいう。しかし、そこにはつくろうにもつくれないプリミティブアートの世界があった。
無数の端布が継いである布団の覆い、丹念な刺子が施してある野良着、破れを一針一針ていねいに繕った酒袋、それらの無名の作者による無作為な仕事に衝撃を覚えた。そしてそれまで自分のなかに眠っていた何かが呼び起こされた。言葉では言い表すことができない感動を私なりに素材で表現したいと思った。
ぼろという言葉は西洋社会においては役にたたないという否定的な捉え方をするが、仏教哲学では継ぎ接ぎが当てられ繕われたものは、謙遜の象徴であり、新しいものより価値があるとされるという。
袈裟の原点といわれる、僧の身につけた継ぎ合わせた布「襤褸布」は、托鉢、つまり乞食の精神を表したものだそうである。
閑寂な趣を好む日本人独特の侘寂の美意識はこうしたところから生まれたのだろう。また、「もったいない」という精神も継ぎ接ぎされた布に込められている。こうした精神やデザインとしての味わいを新しくつくる素材にも表現したいと思った。
建築では生活道具でも自然の素材でつくられたものは時間とともに朽ちていく。しかし朽ち果てる直前、えもいわれぬ美しさを放つ。そんな美しさを捉えたものづくりをしてみたい。
布の力 2007年11月1日
たためば手のひらに乗るほどのサイズであっても、その場の雰囲気や人の気分を変えるほどの力を布はもっている。
たとえば、テーブルクロス1枚でさえも無地か花柄か、またはチェックかで部屋の雰囲気をすっかり変えることができる。
結婚直後の貧乏所帯のころ調度品を揃える余裕もなくて、唯一の楽しみは気に入った布を買ってはカフェカーテンにしたり、ソファーカバーにしたりしていた。
梅雨どきのあの憂鬱な時期でさえグリーンとブルーのさわやかなストライプは滅入る気分を吹き飛ばしてくれた。
昔からよくいわれる「着物一枚に帯三本」は、同じ着物でさえも帯さえ変えれば着たときの印象を変えることができる、という帯のもつ不思議な力をいっているのだろう。
服であればストール。ストール一枚で地味な服が華やいで見え、まるで魔法のようだ。まして人の身を包む服であればなおさらのこと、人の気分に大きな影響を与えるのではないだろうか。
つい先日のことである闘病中の友人に、お見舞い代わりに服とストールを数点コーディネートして送った。
寝込むほどではないと聞いていたので、服で気分転換してもらえたらと 。
日頃はお洒落などあまり関心のなさそうな、どちらかといえば無頓着なほうかもしれない彼女に「お洒落は大事よ、心を元気にしてくれるから」とメッセージを添えた。
数日後、届いた彼女からの手紙に「本当ね、貴方のいうとおり、送っていただいた服をとっかえひっかえひとりファッションショーをしているうちに、何だか楽しくなって、元気が出てきたみたい。そのまま散歩に出たら顔見知りに”元気そうね”と声をかえられたの」とある。嬉しい限りである。
病気までは治せないかもしれないが、服は確かに心を元気にしてくれる。
斎藤茂太氏の著書のなかに「お洒落は最高の脳の活性」と書いてあった。
たしかに個人差はあっても日常的に女性はおしゃれに気を遣っている。
晩年、女性のほうがとかく元気なのはお洒落のせいかもしれない。
この地上で人間だけが服を着る、この特権を楽しまない手はないだろう。
布の力が着る人の個性を魅力的に引き出してくれるに違いない。
たとえば、テーブルクロス1枚でさえも無地か花柄か、またはチェックかで部屋の雰囲気をすっかり変えることができる。
結婚直後の貧乏所帯のころ調度品を揃える余裕もなくて、唯一の楽しみは気に入った布を買ってはカフェカーテンにしたり、ソファーカバーにしたりしていた。
梅雨どきのあの憂鬱な時期でさえグリーンとブルーのさわやかなストライプは滅入る気分を吹き飛ばしてくれた。
昔からよくいわれる「着物一枚に帯三本」は、同じ着物でさえも帯さえ変えれば着たときの印象を変えることができる、という帯のもつ不思議な力をいっているのだろう。
服であればストール。ストール一枚で地味な服が華やいで見え、まるで魔法のようだ。まして人の身を包む服であればなおさらのこと、人の気分に大きな影響を与えるのではないだろうか。
つい先日のことである闘病中の友人に、お見舞い代わりに服とストールを数点コーディネートして送った。
寝込むほどではないと聞いていたので、服で気分転換してもらえたらと 。
日頃はお洒落などあまり関心のなさそうな、どちらかといえば無頓着なほうかもしれない彼女に「お洒落は大事よ、心を元気にしてくれるから」とメッセージを添えた。
数日後、届いた彼女からの手紙に「本当ね、貴方のいうとおり、送っていただいた服をとっかえひっかえひとりファッションショーをしているうちに、何だか楽しくなって、元気が出てきたみたい。そのまま散歩に出たら顔見知りに”元気そうね”と声をかえられたの」とある。嬉しい限りである。
病気までは治せないかもしれないが、服は確かに心を元気にしてくれる。
斎藤茂太氏の著書のなかに「お洒落は最高の脳の活性」と書いてあった。
たしかに個人差はあっても日常的に女性はおしゃれに気を遣っている。
晩年、女性のほうがとかく元気なのはお洒落のせいかもしれない。
この地上で人間だけが服を着る、この特権を楽しまない手はないだろう。
布の力が着る人の個性を魅力的に引き出してくれるに違いない。
素材に助けられて 2007年7月24日
暮らしの柱となっている衣・食・住のどれをとっても素材が一番重要ではなかろうか。
たとえば、どんなに加工で工夫したところで素材が悪いと美味しい料理は作れない。逆に素材がよければ必要以上の加工を施さなくても美味しい料理はつくれる。
私は今、築230年の家に住んでいる。買い求めたときは朽ち果てた荒れ屋だった。230年という長い年月を経たうえに、数十年間放置されていたこともあって、雨漏りなどでかなり傷んでいたものの、弧を描く太い梁は今では手に入らないほどの材が使われていて、そうした見事な素材の質を活かし、7年という年月をかけて一カ所づつ改修した今、見事に蘇った。
今では品格を取り戻し、今どきの新築の家などは足元にも及ばない風格を醸し出している。
服をつくるとき、私は素材づくりにいちばんのエネルギーを費やしている。毎シーズン採用する素材のほとんどをオリジナルでつくるため、見本反(みほんたん)をつくるだけでも一ヶ月半はかかる。出来上がりが納得出来ない場合は再度つくり直す。
時には自分のつくりたいイメージを職人さんに伝えるために産地に出向くこともある。無理難題をお願いすることもたびたびだが、有り難いことに生地づくりの現場の人たちの心意気が答えとなって還ってくる。
私の服づくりは素材に助けられているといっても過言ではない。
力のある素材は小賢しいテクニックなど必要としない。ただ着心地のよさだけを留意し、デザインすればよいのだ。
しかし、デザインの自信のない私はとかく手を入れすぎてしまう。反省することしきりである。
今年の夏の素材は日本の伝統的な柄や織をとくに意識してつくった。
薄手のローンにプリントしたシダ柄は夏物の着物からみつけた柄である。
日本の代表的な夏素材であるしじら織や紗(しゃ)や絽(ろ)で馴染みのからみ織りは縞柄にした。
また、昭和初期に開発され今では新潟で一社しかつくれなくなったマンガン絣(かすり)では、筆描き風の朝顔柄を採用してみた。
昔からの懐かしい織や柄が新鮮に蘇る。素材のヒントもまた復古創新、この地から授けてもらう。
たとえば、どんなに加工で工夫したところで素材が悪いと美味しい料理は作れない。逆に素材がよければ必要以上の加工を施さなくても美味しい料理はつくれる。
私は今、築230年の家に住んでいる。買い求めたときは朽ち果てた荒れ屋だった。230年という長い年月を経たうえに、数十年間放置されていたこともあって、雨漏りなどでかなり傷んでいたものの、弧を描く太い梁は今では手に入らないほどの材が使われていて、そうした見事な素材の質を活かし、7年という年月をかけて一カ所づつ改修した今、見事に蘇った。
今では品格を取り戻し、今どきの新築の家などは足元にも及ばない風格を醸し出している。
服をつくるとき、私は素材づくりにいちばんのエネルギーを費やしている。毎シーズン採用する素材のほとんどをオリジナルでつくるため、見本反(みほんたん)をつくるだけでも一ヶ月半はかかる。出来上がりが納得出来ない場合は再度つくり直す。
時には自分のつくりたいイメージを職人さんに伝えるために産地に出向くこともある。無理難題をお願いすることもたびたびだが、有り難いことに生地づくりの現場の人たちの心意気が答えとなって還ってくる。
私の服づくりは素材に助けられているといっても過言ではない。
力のある素材は小賢しいテクニックなど必要としない。ただ着心地のよさだけを留意し、デザインすればよいのだ。
しかし、デザインの自信のない私はとかく手を入れすぎてしまう。反省することしきりである。
今年の夏の素材は日本の伝統的な柄や織をとくに意識してつくった。
薄手のローンにプリントしたシダ柄は夏物の着物からみつけた柄である。
日本の代表的な夏素材であるしじら織や紗(しゃ)や絽(ろ)で馴染みのからみ織りは縞柄にした。
また、昭和初期に開発され今では新潟で一社しかつくれなくなったマンガン絣(かすり)では、筆描き風の朝顔柄を採用してみた。
昔からの懐かしい織や柄が新鮮に蘇る。素材のヒントもまた復古創新、この地から授けてもらう。
阿部家と暮らす 2007年6月15日
家でも土地でも、手に入れようと思って手に入れられるものではない。
縁なのだ。そしてそれは、相思相愛とでも言うのだろうか、特に古い歴史のある家は、人が家を選ぶように、家も人を選んでいるような気がしてならない。
私たち夫婦は、縁あって一軒の移築(築250年の茅葺きの家)を含め、6軒の古民家を改修してきた。いくつかの修復工事を経験して来た中で、必ず気付かされることがある。それは、家と私の立場がある時点で必ず逆転することである。
阿部家を手に入れたのは、平成10年のことだった。築230年という古さと、長年空き家になって放置されていたこともあって、その傷み具合は手のつけようもないほどだった。とりあえずは、雨漏りがひどくなって抜け落ちた屋根部分をトタンで覆い、応急処置をした。
平成13年、修復工事に着手するまで、今、正に崩れんばかりの土壁に向かって、「もう少し頑張ってね。必ず助けてあげるから」と、励ますように声をかけたものだった。
そして、いよいよ着工した折には、「良く頑張ったね。ちゃんと直してあげるからね」と、雨漏りで崩れ落ちた天井に向かって声をかけた。その時点で私は「〜してあげる」という立場にいた。それはまるで重病人を看病するかのような気持ちだった。
しかし、新しい木舞竹(こまいだけ)が組まれて土壁が塗られる頃、立場は逆転する。修繕が進むにつれて、家は品格を取り戻し、ある種の風格さえも醸し出すようになった。
私は、なんておこがましい気持ちでいたんだろう。この家は、私に心の落ち着き、安心を与えてくれている。何か外で危険な事があった時、心の動揺があった時、きっとこの家に逃げ込むに違いない。この家は、私にとってシェルター的役割さえもしてくれる事に気付かされる。
そして、完成すると更に家の力というものを実感する事になる。光、音、臭い・・・家の中では、私の五感すべてが敏感に反応する。格子戸と障子が重なり合った向こうからの朝の光が差すと、そこにはまるで1枚の絵画のような美しさが浮かび出る。たたき土間のひんやり感は、凛とした緊張感が、足の裏から伝わってくる。くどからもれるけむりの臭いが、遠い記憶を呼び戻す時、心が震えるのを覚える。古びた土蔵の土壁に、蔵の中から出てきた籠の類をあるだけ掛けてみた。にわかにそこはギャラリーに変身した。満足、満足。
日々の暮らしの中で、こんな感動を得るようになるとは、あの荒屋だったこの家からは想像だにしなかった。
私はこの家に暮らすことで、石見の生活文化の豊かさや美しさを実感することになり、ひいては日本人としてのアイデンティティが呼び起こされた。そしてこのことは、この地で暮らすことの誇りとなっていった。
今、私は阿部家に住まわせていただいていることに、心から感謝している。
縁なのだ。そしてそれは、相思相愛とでも言うのだろうか、特に古い歴史のある家は、人が家を選ぶように、家も人を選んでいるような気がしてならない。
私たち夫婦は、縁あって一軒の移築(築250年の茅葺きの家)を含め、6軒の古民家を改修してきた。いくつかの修復工事を経験して来た中で、必ず気付かされることがある。それは、家と私の立場がある時点で必ず逆転することである。
阿部家を手に入れたのは、平成10年のことだった。築230年という古さと、長年空き家になって放置されていたこともあって、その傷み具合は手のつけようもないほどだった。とりあえずは、雨漏りがひどくなって抜け落ちた屋根部分をトタンで覆い、応急処置をした。
平成13年、修復工事に着手するまで、今、正に崩れんばかりの土壁に向かって、「もう少し頑張ってね。必ず助けてあげるから」と、励ますように声をかけたものだった。
そして、いよいよ着工した折には、「良く頑張ったね。ちゃんと直してあげるからね」と、雨漏りで崩れ落ちた天井に向かって声をかけた。その時点で私は「〜してあげる」という立場にいた。それはまるで重病人を看病するかのような気持ちだった。
しかし、新しい木舞竹(こまいだけ)が組まれて土壁が塗られる頃、立場は逆転する。修繕が進むにつれて、家は品格を取り戻し、ある種の風格さえも醸し出すようになった。
私は、なんておこがましい気持ちでいたんだろう。この家は、私に心の落ち着き、安心を与えてくれている。何か外で危険な事があった時、心の動揺があった時、きっとこの家に逃げ込むに違いない。この家は、私にとってシェルター的役割さえもしてくれる事に気付かされる。
そして、完成すると更に家の力というものを実感する事になる。光、音、臭い・・・家の中では、私の五感すべてが敏感に反応する。格子戸と障子が重なり合った向こうからの朝の光が差すと、そこにはまるで1枚の絵画のような美しさが浮かび出る。たたき土間のひんやり感は、凛とした緊張感が、足の裏から伝わってくる。くどからもれるけむりの臭いが、遠い記憶を呼び戻す時、心が震えるのを覚える。古びた土蔵の土壁に、蔵の中から出てきた籠の類をあるだけ掛けてみた。にわかにそこはギャラリーに変身した。満足、満足。
日々の暮らしの中で、こんな感動を得るようになるとは、あの荒屋だったこの家からは想像だにしなかった。
私はこの家に暮らすことで、石見の生活文化の豊かさや美しさを実感することになり、ひいては日本人としてのアイデンティティが呼び起こされた。そしてこのことは、この地で暮らすことの誇りとなっていった。
今、私は阿部家に住まわせていただいていることに、心から感謝している。
自然から学ぶ美の物差し 2007年6月12日
何を美しいと感じるかは人それぞれである。
私は高校時代、美術部に席を置き、油絵を描いていた。恩師のある言葉が今でも記憶に残っている。
「絵葉書のような綺麗な絵を描くな、美しい絵を描け」
あれ以来、私の中では綺麗と美しいは異なる意味をもつようになった。そしてデザインをするようになった今、綺麗といわれるより、美しいといってもらえる服がつくりたいと思う。
私は、服のデザインが生まれる毎に一点ずつ名前をつけている。自分の子どもに名前をつけるように。植物図鑑を開いては、その服のイメージに合う樹木や草花の名前をつけている。
たとえば、蛍袋であったり、ドクダミであったり。
なぜなら自然であるがままの姿こそ、いちばんバランスがよく美しいと感じるからだ。
そのバランスのよい美しさを、私の美に対する物差しにしたいと思っている。
人間の都合で大輪に、あるいはひと枝にたくさんの花をつけるように品種改良された花は、一見、華やかで綺麗に見えるが、どこかバランスが悪いような気がする。
その点、野に咲く花はそれぞれ個性が際立っていて、形もじつに面白い。
私は自宅の玄関脇で瓢箪を育てている。毎年、約三〇個ほどの瓢箪を収穫するが、ふたつとして同じものがない。首の長いもの、ずんぐりむっくりのもの、人の個性に通じるものがあり、見ていて楽しい。
瓢箪を見ていていつも思うことがある。天の上にはすごいデザイナーがいるんだと。
また、私の住む大森町は利便性、効率性を優先した都会の道路とは違って、蛇行した自然のままの川に添ってできた家々が並ぶ古い町並みが、ゆるいカーブを描いている。このカーブの美しさをデザインに取り入れたことがある。ブラウスの前立てをカーブさせたのだ。
ここには一生、尽きることのないデザインのヒントが眠っている。
私は高校時代、美術部に席を置き、油絵を描いていた。恩師のある言葉が今でも記憶に残っている。
「絵葉書のような綺麗な絵を描くな、美しい絵を描け」
あれ以来、私の中では綺麗と美しいは異なる意味をもつようになった。そしてデザインをするようになった今、綺麗といわれるより、美しいといってもらえる服がつくりたいと思う。
私は、服のデザインが生まれる毎に一点ずつ名前をつけている。自分の子どもに名前をつけるように。植物図鑑を開いては、その服のイメージに合う樹木や草花の名前をつけている。
たとえば、蛍袋であったり、ドクダミであったり。
なぜなら自然であるがままの姿こそ、いちばんバランスがよく美しいと感じるからだ。
そのバランスのよい美しさを、私の美に対する物差しにしたいと思っている。
人間の都合で大輪に、あるいはひと枝にたくさんの花をつけるように品種改良された花は、一見、華やかで綺麗に見えるが、どこかバランスが悪いような気がする。
その点、野に咲く花はそれぞれ個性が際立っていて、形もじつに面白い。
私は自宅の玄関脇で瓢箪を育てている。毎年、約三〇個ほどの瓢箪を収穫するが、ふたつとして同じものがない。首の長いもの、ずんぐりむっくりのもの、人の個性に通じるものがあり、見ていて楽しい。
瓢箪を見ていていつも思うことがある。天の上にはすごいデザイナーがいるんだと。
また、私の住む大森町は利便性、効率性を優先した都会の道路とは違って、蛇行した自然のままの川に添ってできた家々が並ぶ古い町並みが、ゆるいカーブを描いている。このカーブの美しさをデザインに取り入れたことがある。ブラウスの前立てをカーブさせたのだ。
ここには一生、尽きることのないデザインのヒントが眠っている。
石見銀山から和の服「復古創新」2007年5月31日
じつは私は洋裁やデザインを学んだ経験がない。まったくの我流で服をつくってきた。知識や技術がないが故にイメージはできてもそれを形にする術がわからず常に壁にぶつかった。そして多くの失敗も経験した。状況が許せば一から勉強したいと思った時期もあった。しかし、一般的な知識がなかったからこそ群言堂独自のスタイルができたのではないかと、今ではポジティブに考えられるようになった。
田舎暮らしの私にとって自分が着たいと思う服に出会う機会に恵まれなかった。ならば自分がほしいと思う服を自分でつくってみよう。というのが、そもそもの出発点だった。典型的日本人体型の私には、西洋的な服は似合わない。流行色といえども、鮮やかな色目はしっくりこない。おのずと日本的な色柄や形の美しさを求めるようになっていった。
昔の着物柄や絣の模様を復元したり、色目も落ち着いた中間色や自然の色を好んで採用した。このことは、単なる懐古趣味的発想ではなく、日本の古くからの良きモノを踏まえつつ、現代に生きる自分という人間のフィルターを通した創造的な仕事だと認識している。
ここから「復古創新」というテーマが生まれた。洋服は書いて字のごとく西洋的発想からつくられた服である。私は、日本的発想で日本人が美しく見える服をつくりたいと考えている。ある本で目にした数行の文章にいたく感銘を受けたことがある。「西洋の服は人間が服に合わせて体型を矯正して着るが、日本の着物は、着物が人間の体に合わせてくれる。根本的な相違である」。
確かにブラジャー、コルセット、肩パットなどを使うことで西洋の服は美しく着こなせる。一方、日本の着物の御端折りなどは腰ひもでちょうどよい着丈に調節することができるし、襟を前に詰めたり、うしろに引いて着たりで、自由自在に自分流の着方ができる。臨機応変に融通が利くということが日本文化の最大の長所であり、特徴ではないだろうか。
私はこうした日本文化独特の要素を取り入れて、ライフスタイルに合った、また、日本人を美しく素敵に見せるデザインを目指して今も模索中である。
群言堂のホームグラウンドは山陰の片田舎の石見銀山にある。ファッション業界で仕事をするには決して有利な土地柄ではない。しかし、服をファッション(流行)として捉えるのではなく、日本人の暮らしのなかから生まれる”衣”のスタイルとして捉えるならば、仕事の場としてこれほど恵まれた土地はほかにないのではなかろうか。
田舎暮らしの私にとって自分が着たいと思う服に出会う機会に恵まれなかった。ならば自分がほしいと思う服を自分でつくってみよう。というのが、そもそもの出発点だった。典型的日本人体型の私には、西洋的な服は似合わない。流行色といえども、鮮やかな色目はしっくりこない。おのずと日本的な色柄や形の美しさを求めるようになっていった。
昔の着物柄や絣の模様を復元したり、色目も落ち着いた中間色や自然の色を好んで採用した。このことは、単なる懐古趣味的発想ではなく、日本の古くからの良きモノを踏まえつつ、現代に生きる自分という人間のフィルターを通した創造的な仕事だと認識している。
ここから「復古創新」というテーマが生まれた。洋服は書いて字のごとく西洋的発想からつくられた服である。私は、日本的発想で日本人が美しく見える服をつくりたいと考えている。ある本で目にした数行の文章にいたく感銘を受けたことがある。「西洋の服は人間が服に合わせて体型を矯正して着るが、日本の着物は、着物が人間の体に合わせてくれる。根本的な相違である」。
確かにブラジャー、コルセット、肩パットなどを使うことで西洋の服は美しく着こなせる。一方、日本の着物の御端折りなどは腰ひもでちょうどよい着丈に調節することができるし、襟を前に詰めたり、うしろに引いて着たりで、自由自在に自分流の着方ができる。臨機応変に融通が利くということが日本文化の最大の長所であり、特徴ではないだろうか。
私はこうした日本文化独特の要素を取り入れて、ライフスタイルに合った、また、日本人を美しく素敵に見せるデザインを目指して今も模索中である。
群言堂のホームグラウンドは山陰の片田舎の石見銀山にある。ファッション業界で仕事をするには決して有利な土地柄ではない。しかし、服をファッション(流行)として捉えるのではなく、日本人の暮らしのなかから生まれる”衣”のスタイルとして捉えるならば、仕事の場としてこれほど恵まれた土地はほかにないのではなかろうか。
世代交代はゆるやかに 2007年5月2日
私達が生まれた昭和20年代の映像をたまにテレビで見たりすると、こんな時代に生まれ育ったのかと愕然としてしまいます。
戦前派、戦後派という言い方があって♪戦争を知らずに僕らは生まれた♪なんて口ずさんでは若者ぶっていた頃もありました。
今や平成元年生まれの若者が高校を卒業して大学生として又、社会人として世に出る時代です。
我社でも若手スタッフによる革新勢力が台頭してきはじめました。負けん気の強いさすがの「登美さん」も若いスタッフの感性の豊かさと感度の高さに「参りました」の今日この頃です。
確かにまだまだ荒削りではありますがやや煮詰まりつつある私なんかより若い人たちの新鮮なエネルギーは未知なる可能性を感じさせてくれます。
うちわの話でなんですが、先日風邪を引き込んで元気のない私にいつになく大吉っあんが優しくしてくれ、口にこそ出さないけど「あんたも疲れて大変だろうから今日は外で夕食にしようか」の思いやりでスタッフも誘って大田市内に出かけました。一年に一度あるかないかのことです。
いつもは、特に、私に対しては厳しい大吉っあんしか見ていないスタッフにとって、暖かいおでんを一番にすすめてくれる大吉っあんは、めったに見たことのない姿だけにとても感動的だったらしいのです。
「代表って優しい〜」
ところがこの一件を聞いた娘、由紀子はこう言ったそうです。「フンッそれで登美さんはまた半年はもつんだから」。なんちゅうことを言うんだと思いながらも、優しくないだの横暴だのなんだかんだと言ったところでこの程度のことで亭主にまるめこまれているのかーと娘に見透かされているのかと思うと口惜しさが先にたつ。そして「見てるなコイツ確かに言い当ててるぞ」と感心している自分がさらに口惜しいのです。
前置きが長くなってしまいましたが、うちわの話は別として、つまり今回お伝えしたいことは確実に世代交代が近づいているということです。そしてそのことは老いてゆく登美のあとに続くものづくりが必然となっているということにつながります。
それはいきなりhinaの世代ではなく50〜40代、40〜30代へと世代はゆるやかな紡ぎ方であるべきではないかと気づきはじめました。
そこで来春企画11月展示会は従来のhinaはなくなり、若いスタッフでhinaをより発展的にとらえたしかも登美デイリーに継がるものづくりをはじめることになりました。
我社の革新勢力にどうぞご期待下さい。
とは言ってもまだまだ大吉っあんも私も隠居にはちょっと早いので、理想の世代交代ができるその日までは懺悔をしつつ功徳を積む謙虚な日々を送りたいと思っています。
戦前派、戦後派という言い方があって♪戦争を知らずに僕らは生まれた♪なんて口ずさんでは若者ぶっていた頃もありました。
今や平成元年生まれの若者が高校を卒業して大学生として又、社会人として世に出る時代です。
我社でも若手スタッフによる革新勢力が台頭してきはじめました。負けん気の強いさすがの「登美さん」も若いスタッフの感性の豊かさと感度の高さに「参りました」の今日この頃です。
確かにまだまだ荒削りではありますがやや煮詰まりつつある私なんかより若い人たちの新鮮なエネルギーは未知なる可能性を感じさせてくれます。
うちわの話でなんですが、先日風邪を引き込んで元気のない私にいつになく大吉っあんが優しくしてくれ、口にこそ出さないけど「あんたも疲れて大変だろうから今日は外で夕食にしようか」の思いやりでスタッフも誘って大田市内に出かけました。一年に一度あるかないかのことです。
いつもは、特に、私に対しては厳しい大吉っあんしか見ていないスタッフにとって、暖かいおでんを一番にすすめてくれる大吉っあんは、めったに見たことのない姿だけにとても感動的だったらしいのです。
「代表って優しい〜」
ところがこの一件を聞いた娘、由紀子はこう言ったそうです。「フンッそれで登美さんはまた半年はもつんだから」。なんちゅうことを言うんだと思いながらも、優しくないだの横暴だのなんだかんだと言ったところでこの程度のことで亭主にまるめこまれているのかーと娘に見透かされているのかと思うと口惜しさが先にたつ。そして「見てるなコイツ確かに言い当ててるぞ」と感心している自分がさらに口惜しいのです。
前置きが長くなってしまいましたが、うちわの話は別として、つまり今回お伝えしたいことは確実に世代交代が近づいているということです。そしてそのことは老いてゆく登美のあとに続くものづくりが必然となっているということにつながります。
それはいきなりhinaの世代ではなく50〜40代、40〜30代へと世代はゆるやかな紡ぎ方であるべきではないかと気づきはじめました。
そこで来春企画11月展示会は従来のhinaはなくなり、若いスタッフでhinaをより発展的にとらえたしかも登美デイリーに継がるものづくりをはじめることになりました。
我社の革新勢力にどうぞご期待下さい。
とは言ってもまだまだ大吉っあんも私も隠居にはちょっと早いので、理想の世代交代ができるその日までは懺悔をしつつ功徳を積む謙虚な日々を送りたいと思っています。
壁に耳あり障子に目ありの、ことわざニューバージョン2007年5月2日
壁に耳ありはアメリカでもウォールハブイヤーズというらしいのですが、障子に目ありはさすがに日本だけのようです。
壁に耳あり
障子に目あり
柱に( )あり。
さて( )の中には何が入るでしょう。
ヒントー古い家だもんね。
答えは・・・↓
白あり
※JAL名人会(落語)より
